つばめ風ハンブルクステーキ

 つばめグリルという洋食レストランのハンバーグが好きである。正確には「つばめ風ハンブルクステーキ」というのだが、アルミホイルに包まれた普通のハンバーグである。新宿や池袋、渋谷の駅ビルなどに入っているので、外出して用を済ませた後なんかに、よく食べに行っている。なぜ好きなのか。何かの食べ物を好きにさせるのは、何も味や店の雰囲気だけではない。僕にとって、つばめグリルについていえば、それは思い出である。それも、小学生の時の。

 

 僕の父はとても自由な人間であり、息子の僕にも放任とも言えるほど干渉してこない。昔、中学受験をした時もそうであった。私立中学を目指す多くの小学生は、母親と二人三脚で中学入試を戦う。僕も日々の勉強は母親の「監視下」でやっていたし、模試の成績にあれこれ言ってきたのも、入試当日付き添ってくれたのも、そして第一志望校の合格発表の日に、掲示板に自分の番号がないことを何度も一緒に確認したのも、母であった。一方、父は勉強のことで口を出してくることはまったくなく、記憶が正しければ2月1日の朝(第一志望校の入試当日である)も、寝ていて顔を合わせることもなかった。中学受験をして私立中高に通うには、かなりの費用が必要だから、そこに父親の経済的な協力が必要不可欠であることは当たり前の事実だし、母も「お父さんも応援しているよ」と言っていたけれど、小学生の僕に父の気持ちを汲み取ることは難しかった。だから、父のそんな態度を見て、「アイツは息子の受験にあんまり関心がないのではないか」と思っていた。

 

 ここで少し入試のスケジュールについて触れておきたい。一月の埼玉や千葉の入試を省くと、2月1日に第一志望、2日に第三志望、3日に第二志望の学校を受けることに決めていた。合格発表は、受験日順に3日、2日、4日である。ほんとうはここまででよかったのだが、志望校別対策講座にいた、神奈川のとある教室所属の賢いヤツらに完全に感化され、なおかつ受験をナメていた僕は、4日に入試を行う神奈川県トップレベルの学校にも出願したのだった。本命の合格すらまだだというのに、「塾のために実績を稼いでやるか〜」などと考えるのだから、小学生というのは本当に恐ろしいものである。

 

 2月3日、午前中の試験を終え、合格者の番号が張り出される掲示板を見に行こうと、僕と母は白い息を切らして学校に続く坂道を早足で上がって行った。学校の中庭にある掲示板に、僕の番号は、なかった。手許の受験票と掲示板を行ったりきたりするけど、やっぱりない。落ちた。僕は、11歳の2月に、初めて挫折を知った。毎日あんなに勉強したのに、受からなかった。掲示板と一緒に写真を取っている親子を見て、悔しくて涙がこらえきれなくなり、学校を飛び出した。坂道を降りて行って、そこにあったベンチで、泣きじゃくった。泣いても泣いても、涙は止まらなかった。

 そのあとは、不合格を再確認していた母と合流して、そのまま帰る気にもなれず、学校の近くをふらふら歩いた。帰ったあとのその日のことは、あまり記憶がない。

 

 泣くと言うのはそれなりに体力を使う行為らしい。僕は身も心も疲れ果てて、翌日4日の入試など受けに行く気力がなかった。小学校も行きたくなかった。でも、通っていた塾の室長に、「せっかく願書を出しんだから受けておいで」と言われて、渋々行くことにした。そうしたら、朝、校門の前で理科の先生が応援メッセージを書いたホッカイロを持ってきてくれていた。それを受け取って、僕はちゃんと最後の試験に向かうことができた。そのカイロは、カチカチになったまま、いまだに机の中にしまってある。

 その日は、3日に受けた学校の合格発表を母が見に行ってくれていた(今と違ってネットでの発表はなかったと思う)ので、帰りに迎えに来てくれたのは父であった。ちょうど新宿駅まで戻ってきたときに、母から電話があって、第二志望校の不合格を知った。今度は泣かなかった。第三志望校の合格は出ていたので、このときに僕の進学先が決まって、僕の中学受験は終わったのだった(4日の学校はハナから諦めていた)。電話のあと、「何が食いたい」と父は聞いた。「ハンバーグ」と僕はとりあえず答えた。

 父は僕をルミネの最上階にある洋食屋に連れて行った。つばめグリルという名前をそこで初めて知った。メニューの一番目立つところにあったので、つばめ風ハンブルグステーキというのを頼んだ。父はビールと何かつまみを頼んでいたと思う。

 少しして料理が来て、僕がアルミホイルをナイフで裂いて食べようとしたとき、

 「頑張ったな」

と突然父が言った。世間の小6男子がどうかはわからないが、当時の僕は父親の前で泣くことを、とても恥ずかしく、情けないことだと思っていた。それでも、父の労いの言葉を聞いた僕は、それまで顔の真ん中あたりにあった熱い塊を留めておくことができなくなって、また泣いてしまった。塩辛い涙と一緒に食べたハンバーグの味は、今はもう覚えていないけれど、そのとき感じた不器用な父の優しさは忘れていない。父の前で泣いたのは、それきりである。

 

 父はハンバーグの話になると、今でもたまに「お前が一番美味しいと思うハンバーグはつばめグリルだもんな」と自慢げに言ってくる。僕は当時そんなことをうっかり言ってしまったらしい。あれから何年も経ったから、たぶん、つばめグリルより美味しいハンバーグも食べた。それでも、僕にとって一番思い入れのあるハンバーグは何かと言えば、それはやはり、つばめグリルのつばめ風ハンブルクステーキなのである。

つばめグリル ルミネ新宿店
〒160-0023 東京都新宿区西新宿1-1-5 ルミネ新宿店ルミネ1 7F
2,000円(平均)1,100円(ランチ平均)